初陣でイキナリ有名になるチャンスが!

山中鹿介(やまなかしかのすけ)/wikipediaより引用

 山中幸盛(やまなかゆきもり)という戦国武将を、知っていますか?巷では、山中鹿介(やまなかしかのすけ)という名前の方が有名です。

 山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、本やインターネットだと鹿之介で表記されることが多いです。ただ、鹿之介は間違って伝わったものなので、ここでは「山中鹿介(やまなかしかのすけ)」で書いていきます。

 さて、山中鹿介(やまなかしかのすけ)ですが、尼子三傑の1人でもあり、尼子十勇士の筆頭として活躍しました。

 優れた武勇の持ち主だったので「山陰の麒麟児」の異名も持っています。
 ※麒麟児とは、将来大成すると期待がもてる、すぐれた若者という意味です。

 一番有名なエピソードは、三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったというものです。これは、「自分に苦労や困難をたくさん与えてください」という意味です。なぜこのような祈りをしたのかは、後ほど書いていきます。

 ちなみに、ドラえもんの「くろうみそ」という話でも、のび太のパパが、のび太を説教する際にこの話をしています。

麒麟児の異名を取った幼少時代

 山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、月山富田城(がっさんとだじょう)の麓(現在の島根県安来市広瀬町)、尼子氏重臣・山中満幸(やまなかみつゆき)の次男として生まれました。生まれた年は諸説あり、天文14年8月15日(1545年9月20日)が通説となっています。別の説では、天文9年(1540年)とも考えられています。

 山中鹿介(やまなかしかのすけ)が2歳の時に、父親が早世し母親1人の手で育てられました。生まれて数カ月で、4~5歳に見えるほどの大きさで、2~3歳の時には武勇と知略に優れ、幼少の頃から主君である尼子晴久(あまごはるひさに仕えました。
 8歳で、兄のことを馬鹿にしてイジメる鎌次郎という暴れ者をやっつけ、10歳からは弓馬や軍法を学び、13歳で敵を討ち取って手柄も挙げています。知勇兼備の正義感の強い美少年だったとも伝えられていて、麒麟児の異名を取るのも納得ですね。

 一時期は、次男ということもあり、同じ家中の重臣の亀井氏の養子となっていました。しかし、病弱だった兄の山中幸高(やまなかゆきたか)の代わりに20歳で家督を継ぎ、山中家に代々伝わる三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑を譲り受けます。

兄から譲り受けた三日月の前立て兜/wikipediaより引用

中国地方最大の大名 尼子氏とは

尼子晴久(あまごはるひさ)/wikipediaより引用

 山中鹿介(やまなかしかのすけ)が仕えた尼子氏とは、どんな大名だったのでしょうか?

 尼子氏は、代々出雲(現在の島根県)の守護代(※守護の職務を代行する職種。守護が県知事なら、県知事代理って感じでしょうか)として、山陰地方を治めた家になります。 
 山中鹿介(やまなかしかのすけ)が仕えた尼子晴久(あまごはるひさ)は、尼子家の5代目になります。天文6年(1537年)80歳で隠居した祖父の尼子経久(あまごつねひさ)から、尼子家を継ぎました。

 一時期は合戦に負けたため勢力が衰えますが、その後勢いを盛り返します。
 天文21年(1552年)には室町幕府の13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)から、出雲・隠岐・備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の8ヵ国(現在の島根県、鳥取県、岡山県)の守護と幕府相伴衆(※室町幕府の役職で、将軍が宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々の事)に、任じられました。

 勢力を広げ、このまま繁栄するかと思った尼子氏ですが、滅亡へのカウントダウンは着実に始まっていました。
 それは、尼子一門が率いて精鋭集団と呼ばれた「新宮党(しんぐうとう)」の粛清と、毛利元就(もうりもとなり)の存在です。

毛利元就(もうりもとなり)/wikipediaより引用

 「新宮党(しんぐうとう)」は、尼子氏の勢力拡大に貢献し、各地を転戦して活躍した勇猛な集団でした。ただ、「新宮党(しんぐうとう)」を率いた尼子国久(あまごくにひさ)と、息子の尼子誠久(あまごさねひさ)は、尼子家中で傲慢(ごうまん)にふるまうことが多く、尼子晴久(あまごはるひさ)や他の重臣との確執がありました。

 天文23年11月1日(1554年11月25日)家中を統一しようとした尼子晴久(あまごはるひさ)が、尼子国久(あまごくにひさ)を暗殺します。尼子誠久(あまごさねひさ)は新宮党館内にて自害、一族郎党も自害もしくは逃亡してしまい「新宮党(しんぐうとう)」は壊滅してしまうのです。

 「新宮党(しんぐうとう)」粛清の裏には、尼子氏を弱体化を狙った毛利元就(もうりもとなり)の謀略という説もあります。

 毛利元就(もうりもとなり)は、三本の矢のエピソードで有名な戦国武将です。
 中国地方と九州の一部を治めていた大内氏の家臣で、謀反を起こし大内家の実権を握った陶晴賢(すえはるかた)を破り、旧大内氏の領地を手に入れた毛利元就(もうりもとなり)は、矛先を尼子氏に向けます。

 毛利元就(もうりもとなり)が狙ったのは、石見銀山(現在の島根県大田市)でした。新宮党を粛清して弱体化したと思われた尼子氏ですが、毛利軍の猛攻に耐え、一進一退の戦いを繰り広げます。

 そんな中、永禄3年12月24日(1561年1月9日)尼子晴久(あまごはるひさ)が、急死してしまいます。雲陽軍実記には、廊下で寒気に当たったときに急に倒れて死んだと記述されていて、死因は脳溢血と考えられています(新宮党の生き残りによる暗殺説もあります)。享年47歳でした。

初陣で有名な敵将と一騎打ち!

 16歳になった山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、「今日より30日以内に武勇の誉れ(戦功)を挙げたい」と三日月に向かって祈りました。そして、その願いはすぐにかなうことになります。
 ほどなくして、急死した尼子晴久(あまごはるひさ)の跡を継いだ、尼子義久(あまごよしひさ)が山名氏の伯耆(ほうき ※現在の鳥取県)尾高城を攻めた時に、一緒に従軍することになります。

 この戦が初陣となった山中鹿介(やまなかしかのすけ)でしたが、伯耆一の勇将と名高い菊池音八(きくちおとはち)一騎打ちをする機会に恵まれます。

 この当時の一騎打ちは、格下の武士が使う武器を選べました。ハンディをもらった山中鹿介(やまなかしかのすけ)は、持っていた槍を置き、脇差(わきざし ※日本刀よりも短い刀剣のこと)を選びました。

 対する菊池音八(きくちおとはち)は、得意な武器である太刀(たち ※日本刀のうち刃長がおおむね2尺(約60cm)以上の刀)を構えます。「この勝負、勝ったな」と思った菊池音八(きくちおとはち)は、対峙する山中鹿介(やまなかしかのすけ)の刀の品定めを始めました。
 菊池音八(きくちおとはち)は、刀を集めるのが趣味で、山中鹿介(やまなかしかのすけ)が持った龍の浮き彫りのある刀を、すでに手に入れた気になっていたのです。

 知勇兼備で麒麟児と呼ばれた山中鹿介(やまなかしかのすけ)ですが、相手も伯耆一の勇将、ジリジリと追い詰められていきます。そして、自分の槍に足を取られた山中鹿介(やまなかしかのすけ)に、菊池音八(きくちおとはち)が太刀を打ち込みます!
 絶体絶命の山中鹿介(やまなかしかのすけ)でしたが、後ろに飛び下がり、菊池音八(きくちおとはち)を左肩から切り下げて討ち取りました。

 初陣で一騎打ちを繰り広げ、勇名を挙げた山中鹿介(やまなかしかのすけ)でしたが、主家である尼子氏は滅亡の道を進んでいきます。

「山陰の麒麟児」と呼ばれた男「山中鹿介」②に続く

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