戦国時代最大のミステリーと言えば、織田信長(おだのぶなが)に謀反をした明智光秀(あけちみつひで)の「本能寺の変」ではないでしょうか?今でも、謀反を起こした理由については諸説があり、真相は闇の中です。
今回取り上げる「野尻湖溺死事件」も、いろいろな説があって謎だらけなんです。まずは、どんな事件だったのか概要から説明していきますね。
事件の概要
事件は永禄7年(1564年)7月5日、坂戸城(新潟県南魚沼市)近くの野尻池で起きました。この頃の新潟は越後と呼ばれ、川中島の戦いで有名な上杉謙信(うえすぎけんしん)が支配していました。
上杉謙信の家臣長尾政景(ながおまさかげ)がいる坂戸城に、同じ上杉謙信の家臣で軍師として有名な宇佐美定満(うさみさだみつ)が訪ねてきます。
長尾政景は宇佐美定満をもてなしますが、7月の暑い日でもあり、近くにある野尻池で涼もうとなります。こうして、舟の上での酒宴が始まったのですが、酒がまわったころに突然舟が転覆してしまいました。
湖に放り出された長尾政景、宇佐美定満、2人に同伴していた家臣共々全員が溺死するという大惨事になってしまいます。
これが事件の顛末ですが、一見普通の事故のように見えますが、実は宇佐美定満が長尾政景を狙った暗殺説があります。しかも、宇佐美定満の単独犯行説から、上杉謙信の命令説など諸説あります。
なぜこんなに諸説があるのか?ひも解いていきましょう。
因縁は事件の14年前からあった?
ここで時間を、天文16年(1547年)まで巻き戻します。この当時、長尾景虎と名乗っていた上杉謙信ですが、兄であり家督を継いでいた長尾晴景(ながおはるかげ)と家督を巡って抗争が始まります。
長尾政景は上杉謙信から見ると親戚になるのですが、この抗争では長尾晴景を応援します。が、天文17年(1548年)12月に、長尾晴景は上杉謙信に家督をゆずり隠居しました。
これで一件落着かと思ったのですが、そうもいきません。家督を継いだ上杉謙信に対して、つねに反抗的な態度だった長尾政景が、天文19年(1550年)に反乱を起こします。最初は優勢だった長尾政景でしたが、徐々に劣勢になっていきます。
原因は、部下たちのやる気が全くなかったからです。元々、長尾政景の部下たちは上杉謙信に対して、敵対心がなく、次々と部下たちが離反していきます。
一番の痛手は、長尾政景の重臣である、宇佐美氏・平子氏らが離反し敵対したことでした。
ちなみに、この裏切った宇佐美氏は、宇佐美定満のことです。この裏切りに激怒した長尾政景でしたが、なすすべもなく孤立していきます。
この反乱は翌年の、天文20年(1551年)に、長尾政景の敗北という形で終わります。
降伏した長尾政景は、上杉謙信の姉である仙桃院(せんとういん)を妻に迎えることになります。その後は心を入れ替えて、上杉家の重臣として仕えます。
弘治2年(1556年)には、家中の争いに嫌気がさして出家しようとした上杉謙信を、いさめて思いとどめさせたり、永禄3年(1560年)、春日山城(上杉謙信の居城)の留守居役に任じられるなど活躍しています。
こう見てみると、反乱後は重要されているような気もしますが、実はそんなこともなかったようです。
上杉謙信が行った合戦には参加させてもらえず、留守居役とはいえ実際は蔵田五郎左衛門(くらたごろうざえもん)という人物が春日山城の管理をしていたのです。
事件で亡くなったときも、武田信玄(たけだしんげん)との内通の噂もあったので、実は上杉謙信からは警戒されていたのでは?なんて、勘ぐってしまう部分もあります。
実行犯の宇佐美定満ってどんな人?
次は、宇佐美定満についてです。
宇佐美定満は文明18年(1486年)生まれで、最初は上条定憲(じょうじょうさだのり)に仕えていました。
上条定憲と上杉謙信の父親だった長尾為景(ながおためかげ)が争ったときには、長尾為景を討ち死に寸前まで追い詰めるほどの軍略家として活躍しました。
しかし、天文5年(1536年)4月10日に行われた三分一原の戦いで、長尾為景に敗北した宇佐美定満は、降伏して長尾為景に仕えることになります。その後は、長尾晴景⇒長尾政景⇒上杉謙信に仕えます。
前述した長尾政景の反乱時には、長尾政景を裏切り上杉謙信側の武将として戦い武功を上げました。ただ、これ以降、宇佐美定満に関しては史料があまり残っていないのです。
上杉謙信からは、あまり優遇されなかったのでは?と、推察されています。
天文18年(1549年)6月、宇佐美定満が61歳の時に同僚に送ったとされる手紙では、「自分は無力であり家中の者も頼りなく」と書いています。
さらに、2年後の天文20年5月(1551年)には、「自分は今に至るまで知行を一箇所も渡されずにいる」「拙者の同心や召仕どもは勇を失っている」と愚痴っています。
晩年は、あまり恵まれた人生とは言い難いですね。
実際は事故?それとも事件?真相に迫る
ここまでは、事件の当時者のことを紹介してきましたが、ここからは事件の真相に迫ってみたいと思います。
その前に、事件の現場となった場所なのですが、こちらも諸説あります。
宇佐美定満の居城がある琵琶島城の浮かぶ野尻湖、坂戸城近くの野尻池など、場所も定かではないんです。
1:単なる事故説
これは冒頭でも説明した通り、2人でお酒を飲んでいて、酔った勢いで舟が転覆して溺死したというもの。まあ、普通な感じですよね(汗)
時期的には、7月5日だし湖で溺れても大丈夫なのでは?と、思いがちですが実はこの7月5日というのは旧暦なんです。今の暦に直すと、8月25日になります。
長野県の湖水調査の資料を見てみると、湖の8月の表面温度は25℃を超えていますが、湖内の温度は10℃以下になります。このデータは2004年~2014年の月別平均温度になります。戦国時代の日本は寒冷期であり、事件が起きた場所も山間部だったので、今よりも湖水の温度は低かったと思われます。
野尻湖の温度参考資料
長野県環境保全研究所研究報告 野尻湖の湖水中の有機物実態調査
人間発達科学部紀要 第10巻第2号
11-16世紀の日本の気候変動の復元 田上 善夫
冷たい湖で溺れて、酒も飲んでいるので、心臓麻痺になったとしてもおかしくありません。
2:ケンカして切り合った説
一時期は長尾政景の部下であった宇佐美定満ですが、天文19年(1550年)の反乱では長尾政景を裏切っています。そのことを蒸し返して、刃傷沙汰になってしまったのでは?という説です。
この説の裏付けとして、当時一緒に溺死してしまったという家臣(国分彦五郎)の母親が残した証言があります。この母親の話によると、湖から引き揚げられた長尾政景の肩下には傷があったということなんです。
刀で切られたというのなら、ケンカ説もあるのかもしれません。
3:上杉謙信による暗殺説
これは、過去に反乱を起こしていて、武田信玄と通じてると噂になっていた長尾政景を、上杉謙信が排除しようとしたのでは?という説です。
長尾政景が率いた上田長尾家は、上杉家中でも最強と言われていました。この最強軍団が謀反を起こしたら、上杉謙信でも手を焼いてしまいます。
だったら、事故に見せかけて長尾政景を除いて、上杉謙信自らが上田長尾家を抑えることは、メリットが多いと考えたのかもしれません。
推理小説でも事件が起きて、一番得をする人物が犯人というのは、よくありますよね。
暗殺のメリット1:地の利
関東への出兵の際に、長尾政景の領地を通らなくてはならず、軍用路の安全確保ができる。
暗殺のメリット2:経済圏の確保
長尾政景の領地を抑えることで、上州との流通・交易を直接管理できる。
暗殺のメリット3:最強の上田長尾家を把握できる
長尾政景が亡くなった直後に家臣を派遣して、上田長尾家を掌握し支配下に置こうとしています。
実行犯として、不遇の対応を受けていた宇佐美定満をそそのかし、事故に見せかけて長尾政景を暗殺させたのです。
うまく長尾政景を暗殺できたら、厚遇すると密約があったのかもしれません。しかし、長尾政景暗殺後に宇佐美一族は、上杉謙信の命により国外追放されてしまいます。
4:宇佐美定満の独断説
上杉謙信の命令ではなく、宇佐美定満が単独で長尾政景を暗殺した説です。これは、過去には軍略家として名声を得た宇佐美定満が、現状の不遇を不満に思った結果暗殺を企てました。
謀反の噂もあり、上杉謙信から見たら邪魔であろう長尾政景を排することで、褒められて待遇がよくなるかもしれない!なんて、思ったのかもしれません。実際は、そんなこともなかったのですが…。
以上が、諸説のご紹介でした。
私は、一番つまらないのですが、事故説が有力なのでは?と、思っていますが皆さんはどう思いましたか?
この事件で溺死した長尾政景ですが、最初は野尻湖の湖畔にお墓が作られました。ただ、お墓の前を通ると落馬することが多いので、野尻湖近くにある真光寺にお墓が移されたという伝説もあります。いろいろと、いわくのある事件には間違いなさそうですね。